Short Short poem「短歌のせかい」

 

column1/Thinkabout:
「わたしの好きな百人一首」

column2/Foreword
「古今和歌集仮名序より」

column3/seasons
むすびし水の」

 

小倉百人一首

 

 誰でも一度は見たことや触れたことや勉強したことや無理やり詰め込んだことが(笑)あるでしょう、
小倉百人一首。「百人一首」で通っているけれど、「小倉百人一首」が正式名称。
お正月にはかならず家族でやる家もあり、クラブでやる人もあり、競技に出ちゃうすごいお人もあり。
百首あるうち、最も多いのが恋の歌。時にはうつろい、切なく、大胆で赤裸々な歌も。
 授業でやった記憶はほとんどなく、百人一首暗記テストなるものがうちの高校であったんだけれど
私は本当にビリを争うような点を毎回更新しておりましたが、それはこんなに美しい歌をそんな簡単に
暗記だテストだって片付けられたくなかった、っていうのがいちばんの理由。
 俵万智が国語の先生をしていた時の話をエッセイで読んで、「短歌の持つ元の意味や香りは、
品詞分解して細かく説明しているうちに、すっかりなくなってしまう。これでは短歌がつまらなくなって
当然だと、私自身も思う。」と彼女は言っているけれど、その短歌が大好きでたまらない彼女のような
人間こそ、余計に教える段階でのジレンマを感じていたに違いない。
 私も、はっきりいって百人一首の歌ひとつひとつをとって自分なりに訳を読んでイメージしてみると、
現代語にはない簡潔な美しさがかえってそれらの優雅な、時には剥き出しの恋心を引き立てていたり
するのに、それをやれ枕詞だ、助詞だなんだと細切れにしているうちに、すっかりその
美しい自分の中の歌に対するイメージがガラガラと崩れ去っていることに気づく。
これでは想像力も理解力もへったくれもない、ただのわけわかんない古文のひとつになってしまう。
 私は高校生の時に、百人一首の時間の時先生が「百人一首で好きな歌を上げてみろ」と言われ
私のいちばん好きな歌:
 「名にし負はば逢坂山のさねかずら 人に知られでくるよしもがな」
だったんだけど、いちおう簡単に訳すと、「逢って寝る」という意味をもつ逢坂山のさねかずらよ、
誰にも知られずにあの人に逢わせておくれ、というような意味。まぁ、高校生が「逢って寝る」とか
言う意味を含む歌をあげたのもびっくりだったんだろうけど、私のその歌が好きだという発言そのもの
先生は無視してあわてて話を変えてしまわれた(今となっては、爆笑もの)苦ーい思い出も。
 今からすると、高校生にそんなのわかるわけないんだけど、その恋ごころのせつなさとか、
断片的に自分に引き寄せて理解できるものもあるわけで、一概に子供だからわかんない、なんてことは
ないと思うんだよね。
 短歌や俳句というのは日本が世界に誇れる、日本語の最も美しい形態だと思う。
今は英語で俳句をつくるとかそういうのもあるけど、読んでみるとその字間にある「日本語独特の間」
とか、雅やかな雰囲気や、仮名のやわらかさがすっかり消えてただの英語の短文になっていたりする。
京都の建築や、枯山水や、日本の焼き物なんかが持つ絶妙な雰囲気とか、空間に対する意識なんかが
やっぱりここにも現れていると、私自身は強く感じている。
 海外に出てみて、「私は日本人である」というアイデンティティを早いうちから強烈に感じていた
自分としてはこの「日本的」というのはなかなか外地に住む人には感じにくいのではないかと思う。
「オリエンタル」でくくってしまうのは簡単だけど、おなじ東洋でもやっぱり全然違うわけで、「仮名」を
もつ日本独自の「言霊」信仰なるものもそこには関連しているのかもしれない。
 
 そうして、ことばの美しさに触れるたびに日本人に生まれてよかった、と思う私なのです。

 

古今和歌集仮名序

 古今和歌集には「仮名序」と「真名序」という二つの歌論がありますが、ご存知有名な「仮名序」。
作者は紀貫之で、そのイントロは古文の授業でも取り上げられるほど。
原文をそのまま古文の授業的に訳してしまうと、なんのこたぁない普通の歌論になってしまうのだけど
実はこれ、現代につながる「言葉の本質」とも言える大切なエッセンスがつまっています。
 古今和歌集を手に入れてじっくり読む時間ができたので、仮名序はぽつぽつと読みすすめて
いるのだけれど、真名序はいかんせん、漢文で言葉を補うだけの読解力がなく、まだ解読(!)
できておりません。・・・というか、これを読んで「仮名序」と「真名序」って何?って思っている人、
絶対いるよね・・・。「仮名」というのは今読んでいる文章、コレ。「真名」というのは漢字。このころは
真名を書く、ということはすなわちイコールで漢文を書く、ということだったのですね。
 ではまず、仮名序より原文抜粋。

仮名序:紀貫之
 やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、
ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり。
花に鳴く鶯(うぐいす)、水にすむかはづのこゑをきけば、生きとし生けるもの、
いづれか歌をよまざりける。力をもいれずして、天地(あめつち)をうごかし、
目に見えぬ鬼神をもあはれとおもわせ、男女のなかをもやはらげ、
たけきもののふの心をもなぐさむるは歌なり。

 ニュアンスはさっと読めばわかるんだけど、???の人もいると思うので、我流ですが現代訳。

 和歌というものは、人の心を原動力として、数え知れない歌となっていきます。
世の中で生きている人というのは、毎日毎日色々なことと出会い、様々なことを思いながら
生活していますから、心に思うことを、見ること聞くことにたくして歌にしています。
梅の木に鳴くうぐいすや、美しい水に住む河鹿の鳴き声を聞けば、この世の生物の何かが、
歌を詠まずにはいられないでしょう。
力に訴えることなく、天地にの神々の心を動かし、目に見えない死者の魂をなぐさめ、
男女の仲を結びつけ、勇ましい武人のように心の動きに疎い人の心をも慰めるのは、歌であります。

 あらやだ、こんなのでよかったのかな?でも、これ以上私には訳せない・・・。
でも、私はこの仮名序の冒頭を初めて読んでからずっと、この文の「歌」という単語はすべて
「言葉」という単語に置き換えられると思っておりました。
自分でも近頃はボキャブラリーが本当に貧相になってきているのが感じられて、全く違う体験をしても
つい、口について出る言葉は同じ・・・。お買い物に行って、なんでもかんでも「かわいー」で
済ましたりしてはいませんか?そこのアナタ!というわけなのです。かくいう私も。
こんなときは、大好きな和歌や詩に触れるとつくづく「言葉の豊かさ」を感じるのです。
言葉が豊かな人は、話が上手で面白くて、そのひとみはいつもキラキラしています。
決しておしゃべりというわけではなく、言葉は少なくとも確実に聞く人の心を的確にとらえられる人。
そういう感受性の豊かな、美しい言の葉を持つ人になりたいと思って、この文をいつも読んでいます。
元来日本語というのは音も単語も言い回しもとても美しい言語なのですから。

 

 

「むすびし水の」

「袖ひぢてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ」
(紀貫之:古今和歌集巻第一 春歌上)

 一度くらいは古文の授業で聞いたことがあるだろうと思う上に載せた歌。
立春のよろこびを詠った歌。簡単に訳すと、「今は遠い夏の間は袖をぬらしながらすくった水は、
冬の訪れですっかり凍ってしまっているよ。けれど今日はもう立春、その氷を(春の)東風がいずれ
解かしてくれるのだろうね。」というような意味。
 季節の移ろいやその美しさを鋭くかつ雰囲気たっぷりに表現する天才、紀貫之という歌人の作品は
私自身大好き。彼の従兄弟の紀友則の歌もやっぱり自然を題材にした歌が多くて、
私のお気に入りのひとつに「ひさかたの光のどけき春の日にしづごころなく花の散るらむ」という歌が
あるのだけれど、私は初めてこの歌を知ったときからずっと山に満開の桜が風に吹かれて
一斉に桜吹雪を吹かせるという写真のようなイメージが頭から離れなくて、そのイメージも
さることながら、あまりの歌の美しさに初めて短歌に涙してしまったのでした。ズルいね、この歌。。
 だけど、貫之はもうちょっと大人の詠み方をするんだな。ただ自然現象だけではなくて、有限無常の
男女やら人の生活なんかもちょっと詠み込んじゃう。それが実に粋なんですねぇ。

 今回どうしてこの歌を選んだかというと、季節がらというのもあるけれど某誌にてこの歌を取り上げて
いたので。というか知りあいのお方の執筆で、毎年立春にはこの歌を想うよ、という文章。
今まで私の周りには短歌を読む人もいなくて、たまに出会うと現代短歌だけだったりしてかなり
淋しい思いをしていたのですが(笑)短歌を想うという粋、加えて私も大好きな歌だという偶然。
ついうれしくなってこの文章を書いております。

 この短歌の主題はむろん「立つ春」なんだけれど、その季節の移り変わりを「水」を通して感じる、
というところに、貫之の才が見える歌だなぁと感じます。
大体現代人って水で季節がわかるの?東京の人は絶対わかんないね。
おいしい水、清浄な水とかっていうものにすら触れたことがないと思う。触るのもこわごわというような
美しい水の存在を知らない人って、一言で言うとかわいそうだねぇ。人の手が一切触れていない、
まさに今湧き出たばかり生まれたての水。
田舎生まれ田舎育ちの私のような人間なら絶対知っている(笑)水で季節を知ること。
実家にいたときには風で、空で、海で、水で季節の変わり目がわかったのに、東京に来たらなんだか
自分が生きている時間がいったいいつなのか、天気予報見ないと解らないもの(爆)
 伊豆は残念ながらめったに氷がはらないんだけど、春浅い時期の山にはぬるみはじめた水が
こんこんと湧き出る季節。我が家の裏手にある山は、水源にもなっているのであちこちで清浄な水に
触れることが多いんです。愛犬をつれて山に遊ぶと、一段落した犬が水を飲むところを探し始め
それについて行くと水が湧き出る場所に連れて行ってくれる。よくわかるなぁと感心しつつ、その
湧き出る水があまりに美味しそうで、私もつい手を出してお世話になってしまうこともあり(笑)
期待通りに口に含んだ水は甘くてまだほんのちょっと冷たくて。

 そういう体験や思いを通して感じることが、この短歌には凝縮されておるわけです。
 

 

戻る