2007年08月01日

きらきら銀灰色の世界

近頃コンビニのビニール傘が好きで堪らない。
60cmの長さでワンタッチで開く傘。

特別に変わったモノではない透明のビニール傘なのだけれど、
昔から降水確率を確かめても傘を忘れる私が
よく世話になった短いビニール傘は、
晴れると投げ捨てたい衝動に駆られるほど大嫌いだった。

傘は所詮どうがんばっても身体の半分しか入れないのに
これでは大切な鞄も、服も、全部が濡れてしまって
辛うじて護れるのは髪だけ。
それでいてワンコイン。

そんな忌まわしい記憶をきれいさっぱり取り除いてくれたビニール傘。
60cmの大きな傘はすっぽりと私を護ってくれる。

時折傘を地面と直角にさしたまま空を見上げれば、
ちいさなプラネタリウムのように天から雨粒がひとつ、またひとつ、
ぱらぱらビニールに当たって弾けて行く、その小気味良い音、
薄い鉛色の空から落ちてくるのは無数のきらきら銀灰色
しばし歩むことも一切合切を止めてただ、ひたすら。

投稿者 Minako : 01:55 | コメント (434) | トラックバック (0)

2006年08月11日

真夏の贅沢なひととき

大人になってから毎年思う真夏の贅沢。
今年はプリウスさんにも乗ってるから
特にそう思うのだけれど。

クラシックが不快にならずに聴けること。

冷房をほどよくかけて、繊細な弦楽五重奏とかをまったり。
コンサートホールで聴く生音もすばらしいけれど
こっちはエアコンの調節が利かないから、下手すると震えながら聴いてたり・・・
しかし自宅か車なら自分の快適な温度で
誰にも邪魔されず隅々まで音質がクリアな演奏を楽しめる。

昔幼い頃にだって夏クラシックは聴いてたのに。
しかも冷房なしで両親のコレクションの古いレコード(笑)
なのに、あの頃はセミがうるさいとか蒸し暑くて不快とか
そういう記憶はないんだよね。集中力の差か?

これは真冬にも言えることで
部屋をとっても暖かくしてホットココアとかコーヒー片手に
あかりは蝋燭のランプ、
そしてバッハのクリスマスを迎えるためのオルガン曲。
あー、私ってとっても贅沢な生活してるわー。
って思える瞬間。

その昔バロックから始まった現代クラシックへの潮流
当時はもっと冬寒いし、夏だっていっぱい着てるから暑いはず
それでも弦楽を楽しむことができたのは何故?
と思ったら、石造りの建物とは音の響き方が天地ほどの差だった・・・
我が家のような日本家屋は
冷房かけて窓閉めないと虫の音とか色々うるさくて。
おまけに自分のピアノもうるさいし(笑)

弦楽アンサンブルに入ってみて初めてその面白さを感じたけれど
舞台は照明で暑いし、同じ贅沢は贅沢でも演者の贅沢は
聴く側とは違う贅沢だものねぇ。

投稿者 Minako : 23:17 | コメント (592) | トラックバック (0)

2006年08月04日

静かな朝

朝は人気のない商店街を抜け、アーケードを通る。
見慣れた風景のなかに発見したもの。

アーケードの屋根がよくところどころ採光のために開いていたのが
近頃めっきり暑いせいか全部閉じている。
まだ暑くなりきらない気候の朝、
アーケードの中はベージュ色の正方形のタイルが敷かれている。
両脇には店舗、その間にはシルバーメタリックのエンタシスにも似た柱。

もちろん早起きして店の前に打ち水をしたり
掃除をしたりしている人々はいるけれど、
基本的には朝なのでまばらな人影。

ふらっとアーケードに入った瞬間、
強い日差しがアーチ型の屋根越しに明るくタイルの石畳を照らし、
両脇には出口までシンメトリーな柱の羅列。

まるで、聖堂だな。

まっすぐに出口に向かってつづく石畳は
まるで太陽のあかりで照らされた内陣へと向かう聖堂の通路。
びしっと左右がブレなくそろっている様式の美しさ。
朝の清浄な空気がかつて見た聖堂の雰囲気をかもしだし、
屋根越しの光は高い石造りの教会建築に在った
わずかな開口部からの柔らかな日差しを思い起こさせる。

ひとつでも屋根が開いていたらその雰囲気は崩れてしまう。
そんなところも西洋建築の様式美を感じさせて。

投稿者 Minako : 23:14 | コメント (666) | トラックバック (0)

2006年07月24日

ソウルメイト

自分にとって良くも悪くも影響を与える人のことを言うのだそうです。
双子のように同じようなことをやっている人=ソウルメイト、
だと思っていたのだけれど。

ちょっとオンラインで調べてみたら、出るわ出るわ。
ひとつひとつが微妙にニュアンスが違うから
ここではまだまとまってなくて何が『ソウルメイト』の
定義なのかは明記しないでおくけれど。

いつも自分にかかわってきて傷つけていく
そんな人もソウルメイト。
ピンチの時にどこからともなくいつも手を出してくれる人
そんな人もソウルメイト。
そう考えると、今年はそういう人たちにいっぱい会ったかな。
護られたり、護ったり、
また私自身が力を添えてあげたり。
↑は、彼や彼女にとって私がソウルメイトだったって事。

不思議に警戒感がなく話せる人。
不思議にプライベートまでさらせる人。
そんな人がいたりとか。
この前本人にうっかり言っちゃったんだけど(笑)
いつも自白剤使ってるみたいに会った瞬間から今まで私が
なーんにも隠し事できないんだけど!って人。

ソウルメイトは人生の色々な場面で出会うだけに
たった一瞬しかクロスポイントがない人、
一生のお付き合いになる人、
色々いるらしい。
確かにそういう人いる・・・

ひとつ明確に思い出せるのは
大学時代にバイト帰りぐったりでタクシーに乗り込み
そこで何の話からそういう流れになったのかわからないけど
タクシーの運転手さんが疲れきった私に言ってくれた言葉。

 人間はね、万人に好かれようなんて思わなくていいんだよ。
 自分が大事だと思う人に大切にされていれば。

もちろんその運転手さんとは一度きりの出会いだったけど、
この言葉は私の座右の銘。
この人だけはソウルメイトって断言できる。

というわけで、もうちょっと調べたらまたまとめて書きます。

投稿者 Minako : 23:07 | コメント (443) | トラックバック (0)

2006年07月23日

雨の日を楽しむ100の方法

雨の日は昔は大嫌いだった。

お洒落な女の子でもなかったけれど
(幼稚園から高校まで全部制服だし)
服は濡れるし、靴は汚れるし、濡れた服が張り付いて寒いし
みんなはお母さんに迎えに来てもらえるのに
バリバリ共働きの我が家は帰るのに傘すらない日さえあって
当然雨の日は大嫌い。

今は車移動ができるから、それほど嫌じゃないけど
おまけに雨の日用の特別な着る物に傘に靴にバッグ
そういう楽しみもあるし。

先週からひとつ仕事場が変わって、
自宅から車で途中まで出て、大好きな駅から電車に乗っていく。
駐車場から駅舎のカリヨンの鐘の下を通ってコンコースへ
その途中で雨上がりには決まってジャスミンの香りがする。
高台の緑深い場所にある駅なので、
必要以外の場所は木々がそのままに残されており
そのいずこからか、ジャスミンの香り。

雨上がりは特に雨の匂いに負けず花と緑の香り
これが9月の雨ならば、金木犀の匂いになるんだろう。

春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる

いつも正体をあらわさない花を風に感じると思う歌。
自然の悪戯に心あそばせて。
雨の日にしか楽しめないものはまたひとつ増えていく。

投稿者 Minako : 23:19 | コメント (541) | トラックバック (0)

2006年04月27日

観照の甘さに浸る。

ある仏教系のサイトを見て近頃激しく刺激され、
大学時代に書いたレポートを読み返したりしております。

大学の他の講義で書いた文章はすべて
「若造が何を言うか」と思えるものばかりなのに
神学のレポートと昔教会で修めていた
キリスト教学の宿題は今読んでも考察が深い。
感性が違うんだなあ。あの頃とは。

どの宗教においても「黙想」とか「瞑想」って大事で、
キリスト教においても例外ではないのですが
この段階まで到達するのは困難なこととされています。
神はそのひとり子をお与えになったほど世を愛された。
と聖書にかかれていますが、
決して人生は甘くはありません。そしてまた信仰の道もしかり。
その辛さや苦しみを乗り越えたとき
道がぱーっと開けるように静かにまた美しい愛の中に居る。
そんな感じかなあ。

神学ではそういう神と一体になるような感覚
「観照」とか「観想」というんだけど、
その観照の甘さに達するのは信仰の上でも最終段階。
これをテオーリアとも言います。英語のセオリーの語源。

結構難しいことを書いているように見えるけれど、
一番シンプルに理解しやすいのは聖書の「雅歌」。
神への信仰の中でゆさぶられる人間の感情、
観照の甘さへの道程を男女の恋愛になぞらえています。
ホラ、簡単じゃん!(笑)
異性に恋することと神を愛し慕うこと(=信仰の一部。)
それはほぼイコールであるわけで。

だから、この業界では神職以外にも
信仰を貫く人は実生活のパートナーを得ない人もいます。
神様がパートナーだから、要らないんだよね。

で、近頃のわたしったら。
勉強をすっかりさぼっているせいか
忙しいを言い訳にしているせいか
テオーリアなんて程遠い現実べったりの生活。
少し深く思考をする時間を作った方が良い感じ。
GW前半はおもいっきり遠出して美味しいもの食べようとか
うきうきで計画練ってたけど中止。

今までに買った神学書読んで
その世界の、観照の甘さに浸るまでは無理としても
浸った気になるくらいなら(笑)できるかな・・・と。
この2ヶ月くらい、こころが大きく波打ったままなので。

投稿者 Minako : 23:42 | コメント (344) | トラックバック (0)

2006年04月05日

涙雨

今日は朝、霊柩車の少し後ろにつきました。

多分私の仕事場の少し先にある斎場に行くはずで、
ということは亡くなった方が乗っておられるはずで。
おそろしくゆっくり走る霊柩車の後には、通勤車の大行列。
遅刻したらなあ、と思っても
霊柩車を追い越すわけに行かないし。(追い越せる場所もないし)

免許を取って初めて霊柩車の後ろについたから
こんなにゆっくり走るなんて知らなかった。

折りしもここは冷たい雨の朝、
高いがけの下は霧のおかげで海は何も見えず
まるで天空を走るひとすじの道。

満開を少し過ぎたさくらの木のなか
霊柩車の後ろは静かな車の行列。
毎年さくらの時季って時が止まったように静かな空気が
まるで葬列を見送るかのようにより一層、静か。
霊柩車に連なる私たちは魂を見送る葬列の一員。

涙雨、だな・・・・

亡くなった人は今年の満開のさくらを見られたんだろうか、
それとも見られなくて悲しいままに終わってしまったのだろうか、
そんなことを考えながら。

キリスト教ではお葬式って全然悲しくないし
天に帰る魂を見送る式だもの。
けれど、仏教のお葬式は悲しい。なぜか、哀しい。

それでも天空の道を走る霊柩車はたぶん、
亡くなられた方の想いを載せて、積み重ねた時間を載せて。

投稿者 Minako : 23:59 | コメント (260) | トラックバック (0)

2006年02月22日

香りにまつわる思い出

不思議なもので、食べ物と同じく体が欲する「香り」がある。
ここ数日はフローラル系の香りばかりが欲しくて
ゼラニウムにラベンダーにイランイラン。
車につみっぱなしのミントのスプレーも全然使ってない。

先々週くらいにはとにかくウッディな香りが欲しくて
毎朝そのミントスプレー、仕事が終わったあともスプレー
とにかくミントとユーカリばっかり。いつもいつも。
女性は特に1ヶ月サイクルで体のバランスが変わるからかな。

ここのところアロマの記事が多くそれに比例して
前回のマイブーム(笑)のとき買った傷んだ精油を処分し、
新しい精油を買い足しているんだけれど
とても欲しいのにいつも二の足を踏む精油がある。

フランキンセンス(オリバナム)とミルラ。

日本語では乳香と没薬ですね。
そう、東方の三博士が幼子イエスに捧げた香りです。
薫香を毎回焚くというミサはもう数十年前になくなり、
現在の日本では『薫香』の存在すら知らない人もいるかも?

乳香と没薬のブレンドされた香りを嗅ぐたびに、
わたしはいつも寒い、そして一人一人の手にろうそくだけが灯された
クリスマスの日が明けたばかりのミサを思い出すから。
ほの暗い聖堂に喜びの歌が響き渡る、あの日のミサは特別な思い出。
そこは毎年同じミサなのに、この年だけはなぜか強烈な印象で
この香りとセットになってあざやかな記憶を呼び覚ます。
カリス(聖杯)と薫香が入ったお香焚きが炎に鈍く輝いていたあの晩。

体は過労の限界だったのに、
精神的にはぴしっと引き締まっていた反面
あたたかい気持ちでいっぱいだった。

だから乳香と没薬は特別な香り。
精神を癒す作用があると聞いても、おいそれと嗅げない香り。
逆に神学書を読んだりする時はいいのかもしれないね。
本を開けばそこは修道院の香り(匂い、という意味ではない「香り」)・・・。
直接感覚に働きかけてくるだけに、記憶は鮮明。

投稿者 Minako : 22:48 | コメント (509) | トラックバック (0)

2006年02月06日

ミントとユーカリとティートゥリー。そして黙想

車にはユーカリ、そしてユーカリが手に入らず
ありあわせで買ったはずがすっかりお気に入りのペパーミントで
作ったルームスプレーを気分転換にふき、
朝晩洗顔のあとはティートゥリーの水で顔を浸す。

ウッディな香りに囲まれて、ひとり御満悦。
みどりの香りは大好き。

先月半ばからまた違う仕事を追加して、
この2週間はそっちにかかりきりなんだけれど。
いや、人と人との間で言葉のやり取りとかレスポンスがあるっていいね。

昨年は好きな仕事だけに集中していたものの、
公私共に対人におけるズレがとても辛くて
どれだけ私がひとりでがんばっても誰にも理解されない
結果を見せても相手には見てもらえない
エネルギーだけがどんどん消耗して空回りのジレンマ。

今年は昨年に比べてパワーはだいぶ回復、
何より充実しているのはその「人と人との関係」。
頑張っていることをちゃんと頑張っていると認めてくれる。
誰かが後ろからさりげなくサポートしてくれる。
そういうのっていいなあ。って単純に暖かい心が生まれるわけで。

私は基本的に精神的な基礎体力はあるほうだけれど、
やっぱり人間だからもろさも同時に併せ持つ。
昨年はもろさばかりが目に付いて、それが嫌になって、
またさらにもろくなっていくの悪循環。
今年は久しぶりにいい風が吹いてるから、上手く上昇気流に乗りたいところ。

体は仕事が増えた分きつくなって疲れてるけど、
明日に向かってもう立ち上がれない、という倦怠感はない。
毎日ことあるごとに森林の香りに囲まれて
感覚的なものと理性的なものの間で浮遊しながら。

投稿者 Minako : 22:43 | コメント (397) | トラックバック (0)

2006年01月13日

図書館にて

今日は図書の返却日で夕方図書館に行ってきたんだけど、
ここの図書館実は大嫌い。
他に図書館がないから行くだけで。
厳密に言うと地元に小さな分館の図書室があるんだけど、
学生時代そこで危ない目にあったんだよね。
しかも、危ない目にあったのは私だけじゃない(笑)

嫌いな理由は、子供がうるさいから。
隣接する小学校からの下校途中の子供たちの遊び場。>図書館
図書館は入って右3分の1が児童書コーナー、左が雑誌と図書コーナーで
児童書コーナーにはちゃんと椅子もあるのに、
広い一般書コーナーで子供がぎゃあぎゃあ大騒ぎ&鬼ごっこ。

いつもいる女性の司書さんは、子供がやることだから「いい」んだそうです。
できた頃なんて子供に激しくぶつかられて転倒しそうなくらい
下校時には子供のグランド状態でした。
何度もうるさいって言っても「ああ、そうですか。」とだけ。
近頃男性がたくさん職員として入ってこられて
その方々は言えばちゃんとすいません、って子供を注意してくださるのに。

司書の資格を持つなら当たり前に図書館は調べ物をしたり
勉強したりするところであって、
他の人が勉強してる隣で水筒のお茶を飲んだり(←今日見た子供)
友達と甲高い声でしゃべったりする場所ではないことを
知っていて当たり前なのに、
絶版で手に入らない図書や貴重書、高価な大型図書なんかに
子供が遊んでてそのお茶かけたらどうすんの?

自分がいいかどうかの問題じゃなくて、
子供に対する『社会教育』っていう概念はないんだろうか?
あそこの図書館で育った子供はみんな
図書館はしゃべったりモノを食べたりしてもいいって刷り込まれるよ。
親がいくらいいきかせたって、実際できるんだもん。

やっちゃダメって知っててやるのと、知らないで大人になるのとでは
かなり差があると思うんですが。
そういうことを教えるのも大人の役割だと思うんですよ。
あの司書さんは親に「他人に迷惑をかけてはいけません」って
言われたことがないんだろうか?

子供だから許されるなんておかしいでしょう?
子供だから迷惑をかけられても我慢しろなんておかしいでしょ。
乳児の泣き声が凄い、とは訳が違う。
私は生後間もない泣き喚く乳児はちっとも迷惑に思わないけれど
図書館で走り回る子供は迷惑以外の何モノでもない。

こういうことって誰に言えば改善されるのかなぁ?
雑誌コーナーとかもよりかかって立ち読みしてて邪魔なんですけど。
振り向いた瞬間にランドセルで殴られたりするし、
鬼ごっこの途中で給食袋で殴られたりするし、
子供が好きなら児童館を別館でつくってください。彼女の私費で。

あ、子供全部がそうじゃないので擁護する意見も書いておくね。
真面目に宿題やってる子もいっぱいいます。
お母さんがついて教えながら、うるさいとたしなめながら(笑)
一緒に勉強している姿は本当にほほえましくてかわいい。
というわけでそういう「きちんと学んでいる子」の
邪魔だってしてるわけで…あのマナーの悪い子供たちは。
困ったもんだ。

投稿者 Minako : 23:40 | コメント (388) | トラックバック (0)

2005年12月26日

クリスマスの夜に聞いたお話

前に書いたとおり、イブの夜は聖夜前倒しのミサに。
本来ならばクリスマスのミサは25日が明ける午前0時に始まるのですが、
交通手段とか諸般の都合で大体どこもイブの晩にあげられています。

クリスマスのミサといっても、ひな形は普通のミサなので
特に変わったところはありません。
いつもどおりに歌うというか唱える部分は
5つの通常文(kyrie,gloria,graduale,credo,agnus dei)に
固有文のIntrotus、Alleluja唱、OffertoriumとCommunioを加え
その間に福音書や旧約聖書を読み、説教を聴くというスタイルです。
んーと、Credoだけは長いので棒読み(笑)スタイルが多いかな。

その合間の神父さまによる説教が面白かったので。
これは信仰の厚さとかじゃなくて各個人の資質だと思うんだけれど、
話される人によって内容の充実度と面白さが全然違う。

以前まだ教会でキリスト教の教義や慣習を修めていた頃
「教会はコンビニエンスストアである」と話された司祭がいらっしゃった。
24時間いつでも食べ物や生活用品が不自由なく手に入るのが
街の中のコンビニエンスストアであるならば、
心の面で24時間信徒や他宗教関係なく手を必要とする人のために
教会は存在しているのです、常に明かりを灯し扉にかぎはかけていません。
とミサの中でお話されていた。

今回は前もって哲学的な内容で難しいやも、
とおっしゃられていた司祭の説教は「無償の愛」について。
哲学的というよりも神学的。
神の無償の愛とは、というお話があり
その後に私たち個人も無償の愛情というものを持っていますか?
という投げかけが続いていく。

どのあたりを指して「愛」としていたのかが曖昧なのでなんとも、だけれど
(例えば男女の愛も愛、友情も愛、信仰も愛、家族への愛も全て日本語では愛。)
家族以外の他人に対して例えば無償の愛を持っていたとしても
それを無償の愛として伝えることはとても困難だ、と思った。
言葉を通すことによって誤解が生じることもあるし
100%自分の意図したとおりに感情が伝わるならば私たちは皆苦労しない。

その自分の中にある感情と意思を
なるべく「生きた」状態で保つこと、また新鮮なままに伝えること、
伝えられるよう努力することというのが
すなわち=生きていくこと、の一部であるのかもしれないな。
とりあえずこんな結論になったわけだけれど・・・。
まだまだ、熟考の余地アリ、です。

投稿者 Minako : 23:55 | コメント (508) | トラックバック (0)

2005年11月07日

牧歌的な時間が過ぎて

ついこの間ミートソースが食べたくなって、
ちょっといつもとは違うレシピで作りたくなり
母の書棚から「ベターホーム」の本を出して作ってみたの。

ベターホームと言えばお料理ビギナーの女子から
独身花嫁修業中の婦女子、そしてマダム世代に至るまで
幅広い層の支持があるお料理の基礎中の基礎。
私は大体食べたものから食材を思い出しつつレシピなしで作るのに
この時はベターホームの本から作ってみた。ら・・・

ミートソースのレシピを追っていくと、最後に「弱火で1時間煮込みます。」
弱火で1時間煮込みます。
弱火で1…時間!?

普段パスタまで煮て30分という
わりと手抜き料理のカテゴリに入るミートソースが
なぜに1時間なんていう超大作なのさ。
1『時間』と言えば、豚肉の角煮とか、牛肉のワイン煮とか、
休日にじっくり取り組む料理の範疇だよ。

考えてみたら、我が家のベターホームの本は20年以上前のもの。
そのころはまだ専業主婦が当たり前で
1時間キッチリトマトを煮込む時間があったってことだよね。
母も結婚してから長兄、次兄を育て私を産んで3年までは専業主婦。
その頃の本なのか。

思えばPCもなくて、携帯もなくて、乾燥機も食器洗い機もなくて
冷蔵庫もこんなに大きくないし、っていう時代は
さぞかしゆっくりたっぷり時間を使っていたのだろうな。
買い物も歩いて行ってたって言ってたし。

子供の頃観た『東京ラブストーリー』でリカが
渋谷のパンテオン前でカンチにすっぽかされるシーンが印象的で
たまにふっと思い出すんだけど、
携帯持ってたらあれ、成り立たないストーリー展開だよね。>東京ラブストーリー
あのなんとも言えない、そして取り返しのつかない
「すれ違い」がドラマの醍醐味だもん。
そのころの大人は普通に彼氏彼女の会社に電話して
取り次いでもらってたって言ってたしなー。

今だったら会社に彼氏彼女からの私用電話なんて
昼ごはんの休憩でさえとんでもない!?でしょ?
メールに携帯にと確かに利便性は格段にあがっているけれど、
なんだか余裕なくてイヤだって感覚がある人もいるよね、きっとさ。

この前手紙を書こうかとペンを持ったけれど
どうしても時間と精神的余裕がなくて書けずに
メールで済ませようか、って思ったらね。
書きたい内容が全然違っちゃったのよ。

どう考えてもメールの方が早く文章もたくさんの量を書けるし
またすぐ読んでもらえるんだろうけれど、
どうもメーラーのゴシックフォントではしっくりと自分の気持ちが書けない。
何度書き間違えても自由自在に消して推敲できる
また漢字も調べなくていいし。
でも、つい時候の挨拶とちょっと様子伺い程度の内容を書くと
もうこれで満足、いいや送ってしまえ、って気分になる。
これが携帯メールになると、もっと中身のないやりとりになるよ。

現代の話題になる小説が紙ばっかり豪華で中身がぺらっぺらなのがわかる。
森村誠一は現在もなおガラスペンで小説書いてるもん。
言の葉を大切にしなくなった、いやできなくなった。というか。
頭の中でうんと考えて、間違えないようにまた字数をカウントしつつ
韻を考えたり文末の言葉の重複を考慮したり、そういう作業をしないから。

というわけで銀座の伊東屋さんでクレインの100%コットンの
贅沢に金をあしらった分厚いペーパーを買い、
parkerのブルーブラックのインクを買い、
さて試しに書いてみようかと思ったはいいんだけど…
それを贅沢に書き記す時間がないのでした(笑)

いや、たった1枚でも肉筆で書かれた手紙を受け取るってことは
受け取る側はすごい贅沢なんだけど。
折角書くなら1枚で終わらせたくないというのもまた書く側の真実。
私も10枚レポート並みの長文メールを1通もらうより
たった一言でも肉筆で記された短い手紙やカードをもらう方がうれしいし。

というわけで、クレインのペーパーはケースに入ったままです。
ぴしっと揃ったクリーム色の美しい便箋と封筒なのですが・・・・
古い万年筆もインクを充填済み、あとは私が書くのを待ってるのに・・・・

投稿者 Minako : 23:32 | コメント (433) | トラックバック (0)

2005年10月31日

CCCD

図書館から借りたスウィング・ジャズのCDが、CCCDでした。
私ちゃんとした音楽聴くもの持ってなくて
PS2かPCしかないんだけど
CCCDって、どっちも相性が悪いんだよね・・・。

まさか図書館で「全ての家庭で聴けないCD」を貸しだしてるとは思わなくて。
今後はちゃんと確認しないといけないな。

私はCCCD買いません。
だって、お金払って買ってもちゃんと聴けないんだもん。
自分でお金払ったのにiPodにも落とせないなんて。
そんな限られた聴き方しかできないなら、最初から売るなよ。
これに賛同して「CCCD出していいですよ」っていうアーティストもどうかと思うけど・・・。

今回はT社のCCCDなんだけど、PCに入れると
CCCDから勝手にプレーヤーがインストールされて
試聴音源程度のレートがつんとさげた質の悪~い音しか聴けないのよ。
しかもひっど~!!って思ったのが、Macでは聴けません
OS差別じゃないのか…(笑)私窓だからまだ聴けたけど
これでりんごとPSしか持ってなかったら、聴けないってことでしょ?

図書館からの借り物だから我慢して聴くけど
(ベニー・グッドマンのsing,sing,singが聴きたかっただけだから落とす気ないし)
これ、お金出して買ってたら多分クレーム入れると思う・・・。

素直にiTunes経由で買えばよかった。
1曲150円で買ってしまえばPCでもiPodでも好きに聴けるほうがいいもん。

ところで。最近↑に書いたように
「sing,sing,sing」の聴き比べにハマってます。
ベニー・グッドマン、映画で使われたの、熱帯JAZZ楽団、上海バンスキングに…
同じ曲を聴くと、基本的なコードがわかるし
その展開とアレンジの仕方がそれぞれに違っててほんと面白いの。
なんだろう?
例えばポリーニのショパン、ブーニンのショパン、フジ子・へミングのショパン
そういう聞き分け方と似てる。

本当はsing,sing,singやりたいんだけど・・・かなり無理だ(私含めて)

投稿者 Minako : 23:36 | コメント (468) | トラックバック (0)

2005年10月19日

上海バンスキング

iTunesのオンラインストアで、『上海バンスキング』の販売が開始された。

吉田日出子は大好きな女優さん。今も、昔も。
この『上海バンスキング』はオリジナルキャスト版で、
ちょっと試聴したんだけど、素敵!
今までJazz始めてからスウィング・ジャズのアルバム結構聞いたけど
これが一番好き。
もう一枚の『上海バンスキングⅡ』のペーパー・ムーンいいわ~。
私が演奏したのなんて幼稚園児の猿真似みたい(笑)

私は今という時代に生まれたことを後悔はしていないけれど
只ひとつだけ下唇をぎゅっと噛んでしまうほど悔しいのは
この『上海バンスキング』の上演を見られなかったことだけ。

深作欣二が映画化してるけど、それは深作の『上海・・・』であって
串田さんの『上海バンスキング』ではない。
や、こっちも映画化してるんだけどさ。今手に入らないもん。

演劇だけじゃなくて文化はその時代を濃く反映するから
もし仮に串田さんがこれを再演することがあっても
もうあの時代の劇場にあった空気とか、雰囲気とかはまるでないんだろうし。
(蜷川の『真情あふるる軽薄さ』再演のときもそう思った)
あの時の『上海バンスキング』が見たかった。

一度バブル全盛に青春を送った中年女性とやりあったことがあってね。
今の若い子はかわいそうね、死ぬほど遊ぶこともできなくて。って
さも自分たちが楽しいバブルの青春を送ったかをえんえんと押し付けられて
○○さんの時代ってかわいそうですね、
一番多感で一番柔軟な思考力があるときにきちんと考える作業をせず
モノとカネにまみれた虚飾の世界を生きてしまって。
と強烈に嫌味でやりかえしたことがあったんだけど(あのときゃ若かった・・・)
そういう時代じゃなければ生まれなかった作品も確かにある。
駄作って言う意味じゃないよ。
ときに演劇は反社会的でもあるし。

バブルなんてどうでもいいが、あの世代に生まれてたら
『上海バンスキング』が見られたんだと思うと。
やっぱり下唇を流血するほどかみしめてしまう、のです・・・・。

投稿者 Minako : 23:06 | コメント (347) | トラックバック (0)

2005年10月11日

魂の舞 すすり泣くヴィオロンの響き

舞踏(BUTOH)大全―暗黒と光の王国

正直わたしは舞踏に入りきれていなかった。

先日お会いしたT.K先生の演劇ワークショップの時に
コラボレーション作品であり、他には前述のとおり舞踏と狂言クラスがあって
舞踏はY.W先生が振り付けをしていました。
この本にはY.W先生についての記述もあります。

Y.W先生もT.K先生も通年の講義(というか実技)を持っておられて
私は当然のようにT.K先生の演劇クラスで
三島由紀夫の『卒塔婆小町』とか『弱法師』のホンを持って
台詞回しとか演技の勉強をしていました。
思えばそのときになんでY.W先生の舞踏クラスに入っておかなかったかね。
人生で演劇を演る経験はどこかでまた出会えるけど
舞踏を演る経験はなかなかできんだろう・・・某稽古場は近くにあるけど。

舞踏を読む上で避けて通れない土方巽、そして以前作品『花』を見た大野一雄。

もうこれを逃すといつ見られるかわからんとちょっと昔
パークタワーホールに『花』を見に行きました。共演の佐藤陽子も好きだし。
アリーナ型(といっても2間×2間くらいの小さな舞台)に客席が作られ
私はラッキーなことにステージから極近い平土間席に座ることができ
(手を伸ばせば触れられるくらいの近さでした)
その世界を堪能したのです。

いや、堪能なんてもんじゃないね。
気づいたらハンカチ出すのも忘れるくらいぼろぼろ号泣してた。

池田満寿夫が亡くなってからの佐藤陽子は
私、そのときに初めて見たわけで
『私のお母さん』での大野一雄の声にならない声
「おかあさん・・・」ですでに泣きモードにつっこんでいた私
さらに追い討ちをかけるように本当にすすり泣くような佐藤陽子の音。
もう涙で舞台がぼやけるくらい泣きました。

-確かに、この人の中では何かが失われたんだな。

そう思ったら泣けてきてね。
大野一雄も当然私は全盛期(体が不自由でない頃)を
全く知らないのだけれど
その『目に見える喪失感』が強く伝わってきて。

けれど、目に見える喪失とは反比例して
彼らの中に宿った新たなる感情、また新しい世界、そこから得たもの
そういうエネルギッシュな部分もまた、垣間見えたわけで。

ちなみに公演後ホワイエでは大野一雄が車椅子に乗って登場し
たくさんのファンとひとりずつ丁寧に握手をしてくださったのですが
わたくし、なんと2回も握手してもらいました。
や、握手してもらったその手がとても力強くパワーに溢れていて
名残惜しくて手を引けなかったの・・・
はっ、と気づいたらもう一度、今度はもっと強くぎゅっと握手してくださって。
あの経験は今までの人生の宝物です。

他人から見たら何かを失ったように見えても
心は何も失ってはいない。
むしろその体験を自分の中にがっちりと取り込んでさらに大きくなる。
そんな彼らのパワーに、圧倒されて。

わたしはいつか、こんなふうになりたい。と思いました。
喜怒哀楽のすべてが自分の糧となり、甘い果実をつけられるようなひとに。

投稿者 Minako : 23:43 | コメント (259) | トラックバック (0)

2005年09月11日

In paradism

あの9月11日のテロからもう数年の時を経て。

In paradism deducant te angeli,
in tuo adventu suscipiant te martyres,
et perducant te in civitatem sanctam Ierusalem.
(アンティフォナ「In paradism」死者ミサより)

世界中の人々にとって、そして私にとっても
あの日は忘れられない日であると思います。
ラテン語の美しい聖歌を聴きながら、あの日のことを思っていました。

私はドイツにいたのでリアルタイムな情報をまるで知らず
次の日にミュンヘンを発ち、命が消えるかもしれないという思いを抱きつつ
帰ってきてから急いで新聞にネットにTVにと情報を求めました。

罪のない人の命を奪うことで得られるモノって何?
今だに、その疑問は心から消えることはありません。
イラクにしろ、アフガニスタンにしろ、ロンドンにしろ、スペインにしろ・・・

先日のロンドンテロの時に、あるイスラムの一婦人が
語っていた言葉がとても印象的でした。

 このようにイスラムの人が多くの罪のない人の命を奪うことによって、
 世界中の人がイスラム、また信徒への反感をつのらせるでしょう。
 私は彼ら(テロの犯人)に賛同することはできません。
 イスラム教徒の全てがあのような人々(犯人)ではないのに
 たった一握りの人間の行動で、敬虔な信徒が
 彼らと同じ目で見られてしまうことに強い違和感を覚えます。

せめて、亡くなられた方々が安らかに眠っていて欲しい。と思い
このアンティフォナを選びました。
天使たちの導きで楽園へとむかう魂への唱です。

投稿者 Minako : 00:00 | コメント (22) | トラックバック (0)

2005年08月10日

カッコイイ大人

少し前に若者と携帯の話をしていたことがあった。
彼の携帯は最新機種で、液晶はなんでも液晶型TVと同じで
PV付きで着メロ(とは言わんらしい)も聴けてカメラは200万画素
毎晩その携帯で音楽を聴いているという。

・・・不便だよね?

って思ったあなたも「大人」ですぞ。
大体姉さん(彼はそう私を呼んでいた)は携帯はメールと通話と
出先で経路検索ができればそれでOKって人だし
PCメールがメインだから携帯メールもそんなに使わないし
携帯の200万画素はデジカメの200万画素以下にしか使えないのも知ってるし
そもそも300万画素のデジカメとiPodで数百曲持って歩いてるからね・・・。

PCを中心に、また質の高さを基準にモノを考える私と
例え帯に短したすきに長し(この言葉は通じなかった)でも1個で済むことに
利便性を見出すあたりが年齢差なのか?

なんか凄く自分が「大人大人した顔」の大人に見られた気がして
その場をどう取り繕ったらいいのか姉さんは戸惑ってしまったよ。
これがジェネレーションギャップってことかな。
戸惑ってるあたりがまだ若造の証拠だと自分では分析してますが。

今まで出会った私が憧れるカッコイイ大人はたくさんおりまして
その方々はもうそういう私くらいのレベルの話はとっくに超越してる。
携帯持ってない人もいるし。
いわゆる文明社会と自分とをリンクさせておく必要もない人なのだ。
自分の才と血の通う人脈の中で生きている。

そういった師匠と呼べる大人たちの中で私は
いつも憧れの目でたくさんの話を拝聴しまた美味しい酒を飲み
いつまでも「与えられる」ことばかりの修行の身であることを認識していた、のですが。

一方的に吸収はさせんよ。

といわんばかりの彼らの目の奥の鋭い光を見逃しませんでした。
私に宿る「若さ」以外の何かを常に貪欲に吸収しようとするその本能
それもまた才能のひとつなのだ、と気づいたのは最近。
彼らまた彼女らは、だから才能の中で生きられる。

そういう本能がまだ目覚めずに、はたまた存在さえ確認できず
ただ違いをあらわにされただけなのに
目の前でおろおろするだけの私はまだ、大人ではない...

投稿者 Minako : 23:00 | コメント (562) | トラックバック (0)

2005年06月01日

本日、やや美文調

教え子をプログレを訳してみなよ、とそそのかした話から。
私ああいう種類の文を訳すのがすっごく下手。
単に読んでる日本語に偏りがあるから、っていうのもある。

やや美文調に偏っていますが。

いつぞや学校に行っていた時代に言われたこと。
あと「文体に特徴がある」とも言われたことがあるな。
うっとりするような美しい文が大好きなんだよね(笑)

私の師匠のうちのお一方に、それは美しい贈り物をしたときに
「私は見目美しくないから、美しいものが大好きなのよ」
っておっしゃっていました(実際には知性溢れる美しい先生です)
私もその師匠の言葉を借りまして。
自分が美しい文が書けないからこそ、美文に憧れるのです。

サブタイトルは白秋先生の邪宗門から頂いたものだし、
例えば邪宗門秘曲からは

 目見青きドミニカびとは陀羅尼誦し夢にも語る、
 禁制の宗門神を、あるいはまた、血に染む聖磔、

こんな感じ。解説は
蒼い透き通った瞳の神父さまは聖歌をとなえておっしゃいました、
わたくしたちの神であるイエス=キリストは一身にひとの罪を背負い
そのあがないのために御身を捧げられました。と。
という感じかしら。
もちろん、薫香を焚いているミサの途中でしょう。
色とりどりのステンドグラス越しの光が幻想的に差し込む聖堂で。
そんなに美しい場所で神父が話した内容は
「十字架にかけられて磔刑になった血だらけのイエス」だからね。
そのギャップがたまらなかったんだろう、と思う。白秋先生も。

ところで、美文調ってどんなものなんだろう?
そのころ書いていたものは確かに課題作文だろうがなんだろうが
小論文も読書感想文も好き勝手に超短編小説書くか、
じゃなきゃ一人で恋愛論ぶちかましてたからな・・・(爆)
一度恋愛八つ当たり感想文で県のなんとかっていう賞をもらっちゃって
学校内に恥ずかしい文をさらしたこともある、んだけど
そんなのもひっくるめて美文調!?いや、違うでしょうよ。

例えば。即興で書いてみると

とろけそうな極上の闇が足元から迫ってくるその瞬間
やさしい瞳からふいにこぼれ落ちた言葉は心を鋭く、理不尽なまでに刺した。

みたいな感じ?
自分ではなんか違う気がするんだけど。
しかし、こんな文体で書いていったら起承転結も何も
何が何だかわからんね(笑)書いている本人も。

投稿者 Minako : 00:36 | コメント (586) | トラックバック (0)

2005年05月30日

おとな。って何だろう。

http://www.nikkeihome.co.jp/news/index.html

日経おとなのOFFのムック、「おとなのマナー実戦講座」
という本を買ってみました。
いやー、私懐石で焼き魚が上手く食べられなくて。ははは。
そのために買ったようなものです(笑)いい年して恥?

気づけば20代も後半になってしまっていて
なんだか自分の方向性はなんなんだよ、ってイラっとくることもあるけれど
「こんな自分でありたい」っていう目標はたくさんある。
いつになっても学ぶことは尽きない。仕事においても、私生活においても。

今回なぜこんな本を突如として買ってしまったか、というと
大学時代に「所作のきれいな女性でありたい」と思って
受付嬢のバイトをしていた時にひととおり
接客応対とオフィスマナーを叩きこんだわけですが、
プライベートな部分は当たり前だけど、受付嬢で学べることはなく(笑)
「所作を学ぶ」は未完成のまま終わっていたのです。

例えば靴の脱ぎ方ひとつとっても「育ちがわかる」し、
例えば先付けを一口食べるだけで食生活がわかる。
大人になるってそういうこと。

他人を不快にさせない程度の公衆の場での基本的なマナーは
少なくとも成人になる前には覚えておくべきだし、
大人になったら一段階上のレベルのマナーがあるのです。
基本を知っていて崩せる、応用できるのもまた上級マナーだし。
だから、たまに見かける(笑)ナイフ&フォークをぎこちなく
セオリーどおりに使ってる人とか
パスタをスプーン使って食べてる人なんかはまだ上級じゃないね。

我が家は食べる事に関しては非常に厳しくしつけられまして
人間として基本的な(相手を不快にさせないという意味で)
食事のマナーは覚えてはいたのですが
毎日毎日懐石やらお寿司やらを食べているわけではないので、
かなりあやふやな知識が多いんです。特に「和」のマナー。

洋食のマナーは海外滞在の時に全部教えてもらって、
かつ毎日ナイフとフォークだから当たり前に慣れた。子供だったし。
ドレスも着る機会があるから、立ち居振舞いはさほど困らないのに
着物は着た瞬間から困るんだよなぁ・・・(苦笑)

なにかお茶とかお花とか和の習い事をすればいいんだけど
もうこれ以上何かをするのは無理、だよな。
書道だって一通り崩しで筆をしたためられるくらいまで来たんでお休み中だし。
というわけで、本で読んであとは実戦でがんばります。

知らず知らずのうちに立ち居振舞いって結構見られてるんだよね。
客商売の人なら一目で大体のところは見抜けるし。

お客になる相手の知識経験、お買い物ならモノを見抜く目、
食事処なら舌の感覚、そういうのって大体
相手が入ってきた時点で見分けられるプロもいる。
やっぱり人情として、わかる人に買ってもらいたいし
わかる人により美味しいものを食べてもらいたい。
だから「違いのわかる人」にはそれ相応のモノが出てきたりする。

いくらこちらがお金を払うとはいえ、
私はモノやサービスを分けてくださる人とは常に対等でありたいのです。
というわけで、レベルの高い場所に行くのなら
自分だってブラッシュアップしていくのは当たり前。だと思いますよ。
向こうだって研ぎ澄まされた知識と経験を持って迎えてくださるのだから。

というわけでプライベートな時間でも「大人」として
一目置かれるようにがんばります。
ただひとつ、「和」だけれど免除科目は器!(笑)何をだされても大抵のものはわかるぞ。
その代わり漆器はわかんないので一から、だわ。

投稿者 Minako : 23:56 | コメント (831) | トラックバック (0)

2005年05月25日

思い起こせば胃潰瘍(1)

今となっては懐かしい胃潰瘍の時の思い出話です。

私は胃潰瘍で倒れる前丸3日絶食しつつ仕事をして大学院に行っており
とうとう4日目の夜、当時一人暮らしをしていたマンションに帰宅後、
なんか胃が痛ーーーーーーーーーい!
っていう激痛を感じた瞬間、前のめりにがくっと膝をついて倒れました。
気づくと真っ暗な部屋で時計だけが数時間進んでて(苦笑)気絶してた、と。

気絶?から目が醒めてみると、とりあえず胃弱の友人に電話をかけ
(胃が痛くて自力で起きられずこのときまだ倒れた位置のまま)
「胃が痛いんだけど、内科でいいんだっけ?」と聞いたのは私です。
病人の言うことは相当おかしいね・・・(爆)

自分ではたかが3~4日の絶食なんて大したことないじゃん、
って思ってたわけですが
その次の日に病院に行って潰瘍ができてるってわかった瞬間から
初めて食事をとることができたのは、
最後にご飯を食べてからすでに1週間が経っていました。

病院での検査もただでは転んできませんでしたよ♪

当時の私の主治医はガン研(しかも内科)で
医局長まで勤めた臓器の(笑)スペシャリストで、
最初の触診で胃潰瘍の位置と大きさまで当てたからね。
で、触診でぽんぽんっと指で触っていって「ここだねー」ってぶすっ。
と指で潰瘍を指した瞬間「ふぐぁ!!!!」と体を二つに折るほどの激痛。
女性の方、月に一度の痛みなんてもんじゃないです。
ううん、刺殺されるときはあんな感じか、ってほど。
「せ、せんせぃ、痛い、です・・・」と蚊の鳴くような声をだすと
「当たり前でしょー、潰瘍なんだから。これだけ腫れてれば痛いねえ。」
あしたのジョーの気持ちがあのとき初めてわかりました。

で、明らかに潰瘍なんでバリウムもやりますね、って
そのとき生まれて始めてのバリウムだったんです。
炭酸飲んで、バリウム飲んで、って手順をわたされてまず炭酸飲んで・・・
ぐわっ!!!!
炭酸を飲んで一気に膨らんだ胃(←このとき絶食5日目)が絶えられず
再び激痛に検査室で崩れ落ちました・・・カウンターパンチきつい・・・

操作室のガラスの向こうから見ていた主治医は、
一瞬で姿が見えなくなった私(笑)を探しに検査室に入ってくると
「とにかく3口くらい飲んでくれれば検査できるから、がんばって飲んでねー」
と言い残し再びガラスの向こうに消えていきました。
必死の思いで3口(←すでにリバースモード)飲んで
やっとのことでガラス伝いに這いずり立つと、
「量が少ないからちょっとぐるぐる回すけど、落ちないでね。」

・・・えっ?

台につかまるやいなや、絶叫マシンもびっくりの回転っぷりです。
乗り物酔いする人だったら絶対あそこで吐いてる、ってくらい。
しかし、先生の腕が良くて助かった・・の?(笑)

そのうち続きを書きます。
To be continued。乞うご期待。

投稿者 Minako : 23:30 | コメント (560) | トラックバック (0)

2005年05月22日

男脳女脳テスト

「話を聞かない男 地図を読めない女」を読み終わった。

あまりに面白くてプッ、と噴出しながら読んでみたものの、
付録の「男性脳女性脳テスト」をやってみたら「女性の中では男性脳」
という結果が出て全然凹んでない・・・(笑)
なんとなく予想してた結果であったものですから。

ちなみにその本に載っていたものと同じテストは以下でできます。

http://www.chaoo.net/sindan/

懲りずにもう一度↑のサイトでやってみた私の結果。

あなたのポイントは -15ポイントです。
(男脳度数:57.5%/女脳度数:42.5%)
ポイントは、-100~100ポイントで計算され、マイナスが大きいほど、男性脳で、
それに対し、プラスが大きいほど、女性脳となります。

中性的男性脳
あなたは、標準的な男性脳の持ち主ですが、
同時に女性的な面も、いくらか持ち合わせています。
どちらかというと何かに挑戦するのが好きで、
空間能力や論理的な考え方を使う分野で力を発揮できます。
比較的に人との対話を重視し、
仕事面ではチームの取りまとめをすることに適しています、
努力次第で、女性的な考え方や感情なども得られます。

・・・「女性的な面もいくらか持ち合わせてます」って褒め言葉か?(笑)
標準的な男性脳って。
女の面をかぶったオヤジだとは大学時代から指摘されてはいたが
事実だったのか・・みんな鋭すぎるよ・・・
しかも努力しないと女性的な考え方が得られない、って。えっ?

確かに感情があまり入らない話し方をするし、気分屋じゃないし
きわめて女性的な「必要以外のベタな人間関係」って苦手だし
(例えば一緒にトイレに行くとかランチは同じ人と必ずとかそういうのね)
アドバイスを聞く気なく、結論の出ない相談をえんえんとされるのも大嫌いだし。
メールをどれくらいの頻度でやりとりしないと友達じゃない、みたいなのもダメ。
それから、話題が「ファッションとTVと化粧」限定の女子も苦手です。

料理に関しても作るのが好き、っていうよりもはや「こだわり」だもん。
モノに強いこだわりがあるのは昔から変わらずだし
くるくるの黒髪ロングヘアに外人女性体型でも、
みなこの「中の人」は新橋あたりの縄のれんで日本酒飲みながら
くだ巻いてるおやぢだもんな、私・・・(笑)

元々ですね、年の離れた兄2人に弟扱いで育てられたので
ベースが男性なのは当たり前じゃん!
でも、仕事をする上で男性的なのは便利ですよ。
大抵の職場は男性の方が多いわけだし。感覚の部分が似てるから話が早い。
そういやランチは男性社員と焼肉の食べ放題行ったりしてたし
コーヒー飲みながら株式投資の話をしたり。同性のノリなんだよね。

女性誌に載っているような○○歳OLロールモデルの一日、
みたいなのはもはや「ありえない」。
何歳で彼氏と出会って何歳で結婚して出産して・・みたいな記事とか
いつまで「一緒にトイレ行きましょ」の延長やってんだ!
ってイライラしてくるの(笑)>女性誌
・・・というわけでたまに買う雑誌って日経トレンディとかサライとか男性誌ばっかりです。
クオリティの高い「モノ」がいっぱい載ってて大好き♪

さて、これを読んだ人はテストをやってコメントで是非報告してください。

投稿者 Minako : 23:04 | コメント (463) | トラックバック (0)

2005年03月17日

destiny

黒部滞在記を書くつもりでしたが、突然のことで日記に変更。

高校の時演劇部の顧問としてお世話になっていた先生が
突然亡くなられたそうで。
訃報でどこかで聞いた名前だと思ったらご本人だった・・・。

まだ40代半ば、お子さんもいらっしゃる先生。
見かけからは想像もつかない炸裂した(笑)キャラクターで
やっぱり変な意味で個性的な私とは話が合い、
教わっていないのによく雑談で盛り上がってました。
その頃から料理や家事の主婦トークでしたので(爆)

今月に入ってからは自分の体は痛まずとも
自分の中に例えば、大きな樹木が一本根付いているとしたら
その根の一つや太い幹がもがれていくような
そんな鈍い痛みを抱える出来事がいくつも。

私は胃潰瘍で療養していた時の詳細をネットには一切書いておらず
今日はじめてこのブログに書きます。

胃潰瘍で倒れ、持っていた仕事やその他のものは継続不能
入院せず実家で療養生活を始めたばかりのこと。
その時胃潰瘍になった原因というのがあったのですが
その原因になった事がさらに悪化し私にストレスをかけ、
帰って早々、治療薬を飲んでいても体が一切食べ物を受け付けなくなりました。
その前の絶食状態で筋肉脂肪はほとんどなくなり、体はげっそりと痩せ
立ち上がるのも苦しくただ一日寝ているのが精一杯の状況。

今でこそ言える話ですが、トイレさえ行くのが大変なくらい
私の体も心も衰弱しきっていたのです。

ただ日一日を寝て過ごすだけの数日間、
「このまま私って衰弱して死ぬのかもしれないなー」
ってそんな考えがふっと頭をよぎったわけですよ。

実際には死なずにこうして今や社会に復帰してますし
なんだかんだ言いながらも美味しいものを食べたいだけ食べられる
そんな生活に戻ってきたわけですから。

「あの時死ななかったんだから、あなたはまだ生きなきゃいけない人間だってことよ。」

ってどこかで誰かが言ってくれた。
私はこの先も生きていく役目がある、らしい。
本人は至って気楽に明日死んでもいいって思ってるけどね。
つまり生きていくっていう運命。

亡くなられた先生を思うと、人の運命って色々だと思う。
私のように生きるモチベーションがなくても(苦笑)
こうして何とか社会とかかわりをもって生きている。

本人の意思とは関係ない場所に何かの「流れ」ってあるのかも、
って今月に入ってからは特に強く感じています。
何か人間の手の届かない場所にある大きな力で
私を含め一人一人の人間が動かされているような気さえしてくる。

というわけで「生きる」役目を背負った人間は
どうあれこうあれ生きなければならないわけです。
苦しくても「生きている」んだからね。
私も前述した「死ぬかも?」と思った日から
胃潰瘍前と同じ食事ができるまでに回復するのには
結局半年弱という長い時間がかかりました。

毎日毎日が長い先の見えない闇の中に、
例えばトンネルのような暗くて寒い場所にひとりで居て
明るい太陽の元に出るにはあと幾晩夜を越えればいい?
って思いながらただひたすら日一日を傷だらけの心と体を抱えて
一人で泣きながら歩いていたのです。

「風と共に去りぬ」の本編だか続編だか忘れましたが
主人公のスカーレットに乳母がこう言い聞かせるシーンがあります。

スカーレット、人間には一人一人背負える荷物というのが決まっている。
お嬢様が人一倍荷物を背負わされているということは
それに耐え得ることができる人間だと、神様が知っているからだ。

私はこの言葉をよく「暗い闇の中」の時間で思い出し
もう私には背負えない、降ろしてしまいたい、歩むのをやめたい、
何度もそう思いながらも長い時間を通り抜け
結局は背負って闇を通り抜けてしまった今になっては
やっぱり一人一人のキャパシティって決まってるんだな、って思います。

こんな時間を経て新しく見えた世界や自分に芽生えた感情や経験
私にはたくさんの新しいモノがもたらされたわけですが
亡くなられた先生は未来永劫亡くなられたその時のまま。

改めてその事実を目の当たりにして、
また「生きること」の意味を今日は深い場所で考えています。

投稿者 Minako : 23:43 | コメント (418) | トラックバック (0)

2004年11月08日

Let it be

今日11月8日は、私の恩師の命日。
以前にも日記に書いたことがあるけれど、この日にだけ聴く曲がある。
Beatlesの「Let it be」。

When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be...

私の時間を日陰から太陽の下に照らし出してくれた恩師。
学校の教師じゃなくて、英語を習っていた塾の先生。
密度の濃い時間をひとときに駆け抜けて
若くして死んだ先生の姿は今でもまぶたに浮かぶ。

その自由な生き方と、強い意志と、発想のしなやかさ、頭のよさ
人間として本当に尊敬してた。
語学の師として、人生の大先輩として。

ビートルズ世代(だったのか?)の先生は大学卒業後
なんでも3年強イギリスに居て、その後世界を放浪して歩いたそうだ。
とにかくビートルズが大好きで
英語を始めるきっかけになったのがビートルズだった、んだよね。先生。

というわけで門下の私たちもみんなビートルズが大好き。
きっかけはここなのでした。

その中でも先生が座右の銘としていたのがこの曲。
いつか強い意志は未来を導き出す。
そう言ってたよね。
この曲を口ずさみながら。

先生と最期のお別れをした時にも、みんなでこの曲をかけて送ったのよね。
あのとき涙の中で歌ったこの曲は一生忘れない。
以来、この曲は今日しか聴かないの。

本当に不思議なのは、私の人生において重要な出来事はいつもこの日に起こる。
なんでだろうな。

「おまえな、いいかげんに大人になれよー」

どこからか先生の懐かしい声が聞こえてきそうだ(笑)
いつまでも先を案じなければならない不出来な弟子でごめんね。
だけど、自分にうそ偽りなく生きてるから。
それだけは胸を張って言えるよ。

「そんなの自慢にも何にもなんないんだよ!」

こう言い返されそうだ・・・・(爆)ああ、やっぱりダメな弟子でゴメン。

全文(思い出しながら書いたやつ)

When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be
And in my hour of darkness
She is standing right it front of me
Speaking words of wisdom
Let it be

Let it be, let it be
Let it be, let it be
Whisper words of wisdom
Let it be

And when the broken hearted people
Living in the world agree
There will be an answer
Let it be
For though they may be parted there is
still a chance that they will see
There will be an answer
Let it be

Let it be, let it be
Let it be, let it be
yeah, there will be an answer
Let it be
Let it be, let it be
Let it be, let it be
Whisper words of wisdom
Let it be

Let it be, let it be
Let it be, let it be
Whisper words of wisdom
Let it be

And when the night is cloudy
There is still a light that shines on me
Shine until tomorrow
Let it be
I wake up to the sound of music
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be

Let it be, let it be
Let it be, let it be
There will be an answer
Let it be
Let it be, let it be
Let it be, let it be
There will be an answer
Let it be

Let it be, let it be
Let it be, let it be
Whisper words of wisdom
Let it be

投稿者 Minako : 23:30 | コメント (657) | トラックバック (0)

2004年11月03日

いまを生きる

昨日の新聞コラムに、懐かしい詩を発見。
といっても題名も作者も全然覚えてなくて(笑)本文を見てようやく。

「いまを生きる」という映画でテーマのように引用されていた詩。
アメリカの詩人、ホイットマンの詩なんだそうだ。

Oh Captain,My Captain.

印象的な始まり。
ロビン・ウィリアムスが授業放棄してこの詩を読み始める。
そんなシーンが頭にぱっと思い出されて。

この映画はイギリスの超名門校イートン・カレッジがモデルだった、はず。
家柄も財産も飛びぬけて名門の家に生まれた子息が
全寮制でありとあらゆる勉学を修める男子校で、古くは15世紀までさかのぼれた、はず。

映画の原題は「死せる詩人の会」。
劇中でロビン扮する教師がここの学生だった時代に持っていた秘密のサークル。

初めてこの映画を見たのはまだ中学生で
オーストラリアでの短期留学を終えて帰国したばかりの頃でした。
字幕のないVTR、TVにかじりついて見たこの作品。
とにかく詩とか抽象的な内容が多くて、いくら耳慣れていたといっても
まだ子供には難しくて
数年後にまた見て、大学に入ってまた見て。

でも、英語の韻文って本当にきれいなんだよ。
日本語にも増して「音」に近い言語がきれいに韻を踏んで
さらさらと言葉が音楽のように流れていく。

私に英語を叩き込んでくれた恩師は
残念ながら高校の半ばで急逝してしまったけれど
この映画を見るたびに恩師は私にとっての「キーティング先生」だったんだな。
って思えて仕方がない。

ちなみにこの恩師の話は日記で何度も断片的に書いているけれど
後数日で命日、そろそろまとめて書いてもいいんじゃないかな。
と思っているので、そのうちに。

私の生きてきた時間を分けるとすると
幼稚園入園までの幼児期、幼稚園~小学校卒業までの監獄(笑)期
中学~高校卒業までの黎明期、あとは適当に・・
って感じかなあと思う。
監獄に入れられたように祖母の厳格な管理のもと
学校からの帰宅時間まで決まっていたという生活を幼少期に送った後
いきなり留学先の英語圏での自由な生活でしょ。
そのあたりの感覚がこの映画と全くシンクロするのよ。
細かいことは忘れてきてるけど。

その自由な世界を見せてくれたのも、封建的な時間から引っ張り出してくれたのも
いまのこんなわけのわからない生き方をする「わたし」があるのも
全部その恩師のおかげ。
ほら、Mr.キーティングと重なるでしょう?

色々な意味で思い出深い作品である「いまを生きる」のなかで
さらに印象的だったこの詩。
韻文好きなくせに今だに全文を読んだこともなく
いつか題名を探し出して読んでみたいと思っていたこの詩。
こんな風に再会できたことをただひたすら喜んで。

いつかきちんとこの詩と向き合う機会ができたら
ここに「翻訳シリーズ」としてまた載せてみたいと思います。

投稿者 Minako : 23:25 | コメント (515) | トラックバック (0)

2004年10月17日

秋の思い出・曲に乗せて

いつか書こう書こうと思っていながら数年がたち
今書きたいと思ったから、まとまってはいないが書いてしまえ。

ご存知のとおり(?)めちゃくちゃな音楽趣味を持つ私。
(ちなみに今のBGMはキャプテン・ジャック)
そんな私にも「思い出に残る曲」なんてものがあります。
ビートルズのLet it be(これは簡単には書けない)、
誕生日が同じなビリー・ジョエルのピアノ・マンなどいくつか。
考えてみると秋という季節に関係が深いものが多かったのね。

今日うん?と思い出したのは松任谷由実の3曲。
「サンドキャッスル」「9月の蝉しぐれ」「残暑」の
大学時代の友人たちの間では「失恋3部作」で通っております(笑)

過去に私が大きな(と、当時は思っていた)失恋をして
「号泣カラオケ」と銘打って友人たちがカラオケに付き合ってくれたとき。
失恋なら昔散々聴いたユーミンだ、それも号泣できるようなやつ、
と私自身が本能的に選んだ3曲。

それはどの曲もそのとき終わった恋に状況が酷似していると指摘され
本人は辛すぎて泣けず、失恋もしていない友人たちをなぜか号泣させ(笑)
それ以後誰かが失恋したら私がこの曲を3曲捧げることに・・・
ユーミンとみなこはセットらしいです。どうも。なんでだろう。

歌詞を全部載せるスペースがないので、興味のある方は調べてみてくださいな。

その3曲でも印象的なのは
「教えて大人になるって言うのは もう平気になる心」
大人になっても痛いものは痛いし ただ昔子供だった頃みたいに
24時間スタンバイで何も考えず痛みに浸れないってだけで。
本当に「大人になること」を教えて欲しいと思う今日この頃。

それは私が今だに幼いところを残しているからかもしれないけれど
私が痛くて痛くて涙も流せず心で泣いていると
必ずそばでその私を見て誰かが泣いているし(なぜだ)
そういう周りが感じ取れてしまう生々しいわたし、っていうのは
まるきり子供のものなんじゃないか?と思ってみたり。

もう少し良い意味で大人になったほうがいいのかなあ。

それが私らしさであるから、そのままでいいんじゃないのと
言ってくれる人もいる。
痛いものは痛いというし、うれしいときは全身で喜びを訴えるし
表裏がなくてまっすぐに何も考えず(ただのバカ?)生きているわたし。
大風のままに。

しかし、秋はなぜ「恋愛の季節」なんだ?

投稿者 Minako : 23:28 | コメント (428) | トラックバック (0)